西村八知 Hatch Nishimura 1922~2012 ルヴァン美術館初代館長
1922年 1月5日 和歌山県新宮に生まれる。
西村伊作と光恵の三男。八番目の子で、父伊作から干渉されることなく、おとなしく育つ。家族と共に上京、五反田の小学校を経て明治学院中学(5年制)に入学。
1941年 文化学院美術科入学。
山口薫、脇田和、佐藤忠良から指導を受け、美術評論家の今泉篤男にも目をかけてもらい、先生の中でも画家の硲伊之助からの影響を受ける。
1943年 東京美術学校(現東京芸大)入学。
東京美術学校に入り「文化学院での空気は暖かい人間的なもので他の学校にはないものだ」と気付き、「教育の中心となるもの…それは教えないで、教えるもの」とエッセーに書いている。
1950年 文化学院に日曜美術科を立ち上げ同科科長に就任。
1952年 美術研修でパリに留学。ヨーロッパ各地、中東の史跡や美術館を訪ねる。
1955年 芸大の同級生佐浦富子とパリで結婚。
1957年 文化学院美術科で教鞭をとる。 翌年美術科科長に就任。
1988年 文化学院校長に就任。 美術科科長、日曜美術科科長も兼任。
校長然とすることなく常に自由で自然体で、生徒達からはハッチと呼ばれ友だちのように親しまれる。八知の美術史の授業は人気があり、講義録は『ぼくの美術史散歩』(『美の散歩』)として書籍化される。
1997年 7月 ルヴァン美術館設立。
父西村伊作が創立した文化学院の思想を現代の世にも広めたく、私財を投じて設立、初代館長に就任し亡くなるまで続ける。美術館の建物や庭園は、美しい生活を理想とした創立当時の学校の雰囲気を再現している。
人生は楽しくありたい
折角頂いた命なのですから
出来たら美しいものに触れる
喜びの機会をより多く・・・・
そんな気持ちで、この美術館で仕事を進めています。
2007年 文化学院退職。 美術制作活動に専念。
新宮市が開催する「熊野芸術文化セミナー」の講師として初回から招聘され、ワークショップは毎回大勢の参加者で賑わい、亡くなるまで新宮の人たちと美術創作を楽しむ。
文化学院退職後も「八知ゼミ」を通して卒業生とも交流を重ね、制作活動も続ける。
2010年 ルヴァン美術館にて「西村八知・恋人としての作品展」を開催。
2012年2月 90歳で永眠。
油彩
硲伊之助先生 ぼくの最初の絵の先生は硲伊之助先生で 先生は長くフランスに居て 日本では珍しくラテン系の感覚を持った画家です 明るい色彩の調子と形の正確さに厳しい先生でした 軽井沢でのぼくのこの絵は学生時代の絵です 先生の影響がある (『夕暮れの散歩』)
立派な生き方 アフリカやインドの下層の住民が洗濯物のカゴや壺を頭に乗せ 体を真っ直ぐに堂々と歩いているのを見る 都会では文明人というのがこせこせあるいている どちらが立派な人間だろう (『夕暮れの散歩』)
求めるもの ぼくは見るものをそのまま写すことに興味がない。 見るものだけではそれは幻に過ぎない。 それをどう解釈するかによって芸術となる。 ところがそれが、ぼくのような凡人にとって難しいところだ。 ぼくにとっては具象も非具象も区別がない。 具象とは見える世界の表現だが、それが幻のままでなく、何か存在するものの不思議なものがあるようであるが、セザンヌなんかはそれで悪戦苦闘した。 その姿が実に立派なのである。 セザンヌでもゴッホでも具象の絵であるが、そこに非具象の不思議な世界がある。 ただ美しいだけが目的ではないようだ。 目的とするものは求める物の崇高な姿であろう。 その作者が求めて止まない姿、それは平凡な自然から美を抽象したものであろう。 (『夕暮れの散歩』)
パピエコレ
パピエコレ:フランス語でコラージュのこと 絵具で描くと色や形の取り換えがすぐに出来ないが、色紙だといろいろ変えられる。 面白いから近頃よくやっている。 単純化出来て面白い。 (『夕暮れの散歩』)
テラコッタ
テラコッタとは粘土を焼いて作った素焼きのことだ。 釉薬をかけない淡褐色のやわらかい色で、テラは「土」、コッタは「焼き」のイタリア語である。 人類の最初からある。焚火を灰に入れた粘土がしっかり焼けたので、壺などを作ったのだろう。 先史時代にもあるが、特に古代ギリシャの人形は有名である。 ぼくも好きでたくさん作った。 (『夕暮れの散歩』)