展示室

ル ヴァン美術館の展示室は3室にわかれています。

第1室は西村伊作と当院の教育に携わった芸術家たち、

第2室、第3室は毎年企画展として色々な展示をしています。

大正のモダニスト/西村伊作

西村伊作(1884-1963)は和歌山県新宮市に生れ、幼くして熱心なクリスチャンであった両親を震災で失い、山林主の母方の西村家の養子となり、その遺産を引継ぎました。青年期から独学で絵を描き、陶器をつくり、欧米のモダンリビングを取入れた自邸を設計して住み、またアメリカ留学を終えて帰国した医師である叔父大石誠之助と本格的に生活の改善、欧米化を推進しました。

多くの芸術家たちと交わり、「生活を芸術として」を実践すると同時に多くの著作によって大正期の人々に新しい生活を啓蒙し続けました。

家庭生活を大切にした伊作は、教育にも熱心に取組み、やがて1921年(大正10)私費を投じて東京神田駿河台に現在も自由な教育で知られる「文化学院」を創立し、生徒一人一人の個性を尊重し、自由に育む教育を実践しました。その自由さは戦前二度にわたり公権力の弾圧を受けますが、自らの理想を貫き通した生き方は、大正期を代表するモダニストとして、現在もなお多くの人々に感銘を与えています。

≪太平洋食堂≫明治37(1904)年

叔父・大石誠之助に協力して新宮・船町に建てた簡易な建築によるレストラン。家具の選択にも配慮し、欧米の食事のマナーを普及させる目的のものであったが、経営的にまもなく破綻した。左からふたり目が誠之助、3人目が伊作。英語名のPacificには平和主義者(Pacifist)の意味が重ねられていた。看板は伊作がペンキで描いた。

伊作は大逆事件で検挙された叔父、大石誠之助に会う為、弟の眞子と共にオートバイ2台で東京に向かった。その時使用されたオートバイは欧州経由で米国に行った際、持ち帰り、まずそれを神戸に送ってから、「トラの皮の様に見える毛皮」のオーバーを着て東京に向かった。

左から伊作、妻・光恵、長女・アヤ、
長男・久二、お手伝い、大石真子
≪自邸の前の伊作と大石真子兄弟と
明治43(1910)年11月頃
オートバイ「ソアー1910年型」≫

叔父・大石誠之助に協力して新宮・船町に建てた簡易な建築によるレストラン。家具の選択にも配慮し、欧米の食事のマナーを普及させる目的のものであったが、経営的にまもなく破綻した。左からふたり目が誠之助、3人目が伊作。英語名のPacificには平和主義者(Pacifist)の意味が重ねられていた。看板は伊作がペンキで描いた。

伊作は大逆事件で検挙された叔父、大石誠之助に会う為、弟の眞子と共にオートバイ2台で東京に向かった。その時使用されたオートバイは欧州経由で米国に行った際、持ち帰り、まずそれを神戸に送ってから、「トラの皮の様に見える毛皮」のオーバーを着て東京に向かった。